詩集『リエゾン LIAISON』より No.08 「未来」
未来
欄干にもたれても
昨夜の夢がかえってこない
そんなときは蝶になって
まだ朱け染めぬ海峡を渡る
それにしてもきのうの夢は
いままでにかえってきたためしがない
だからもうすっかり蝶になってしまって
こうして渡りつづけてはいるが
まだ海流は暗く閉じたままで
いつまでも向こうの桟橋を教えない
きっといまごろその波止場では
あちこちの倉庫の開かれる軋みや
動きはじめる貨車の響き
行き来する数えきれない靴のざわめきへ
カモメが青く舞い降りているはずなのに
ありあまるほどの朝のひかりが
そこには置かれているはずなのに
たどりつけない
こうしてただ蝶として
時間のはざまを渡りつづけるばかりで
きのうの夢は何だったのかと
きのうの夜はどこへいったのかと
用意されないおおきな答えに
自分自身が成りかわろうとするように
詩集『リエゾン LIAISON』より No.07 「手紙」
手紙
宮殿からアテティカの谷へと降りてゆくあの階段で、あなたを見かけようとは思いもしないことでした。暑い日盛り、あなたの着ていたガウンと足許の大理石との白が、たがいに響きあって、澄んだ階音を鳴らしていたことを記憶しております。それともあれは、ただの衣擦れだったのでしょうか。かつて宮中一のエラート奏者とうたわれたあなたのまわりには、いつも音の粒子がまといついている、そんな思いがあったからなのかもしれません。それにしてもあの長い階段を、あなたほどの秀でた音楽家でさえもが降りてゆくのかと、なぜ、という驚きと、やはり、という哀しみとを禁じ得ませんでした。遠くかすかな人のざわめき。ゆらめく蜃気楼。風にゆれる橄欖の枝。そして、まばゆい、テラ。そうした一切のものが時間の断面で切りとられて不意に立ちどまり、そのなかでただあなたひとり、奇妙に浮かびあがって見えたのです。そういえば、どこに置き去りにしたのでしょう。いとおしみ、磨きあげ、決してその身から離しはしなかったあの楽器を、あなたはどこに置いてきたのでしょうか。宮殿での晩餐会に招かれたときはもとより、アゴラの雑沓のなかにいても、旅をするときも、裏庭をひとり逍遥するときでさえ、あなたの肩からはいつもあの楽器が提げられていました。ときおり風に鳴り、光にゆらめいて、その不思議な音色については誰もが神のつぶやきと噂したものです。それほどあなた自身であったはずのものが、あのときのあなたの肩からは消えておりました。荷物もなく、素足のまま、ただ真新しいガウンの白だけに身をつつんで。それまでにも、幾人の人たちを、この階段に見送ったことでしょう。誰もがかかえきれないほどの身仕度をして、谷へとつづく長い階段を、それでももどかしげに走り降りてゆくのでした。海を渡ってきた吟遊詩人もいれば、宮殿の壁画を仕上げたばかりの絵描きもおりました。その人たちに比べると、あなたはなんて身軽ないでたちだったことでしょう。そして、なんて確かな足の運びだったことでしょう。アテティカの谷の深みには、いったいなにがあるのでしょうか。美しい人たちはみな、どうしてこんなにも降りてゆこうとするのでしょうか。そこからは、いままでに誰ひとりとして、帰ってきたためしがありませんのに。あれから千年。あなたはいま、あの長い階段のどのあたりを降りているのでしょう。あいかわらず透きとおった眼差しと、崩れることのない足取りとで。そして、おそらく、あともう千年。そのときあなたは果てしない瑠璃色の空へ、アテティカの谷から翔びたつことにちがいありません。あなただけは、きっともどってくるにちがいありません。銀のほのおと燃えあがり、祈る翼のかたちをして。
詩集『リエゾン LIAISON』より No.06 「朝のエチュード」
朝のエチュード
すべてはどうしてこれほどまでに
私を不安にさせるのだろう
たとえばそれがライターにしても
たとえばひとくちの水であるにしても
こんなにもすべてがそろっているのに
こんなにもたくさんのひとがいるのに
なんだかとても寒くてならない
陽はこんなにもまぶしいというのに
おだやかな朝ふと気がつくと
すべてがふいに透明になる
そんな激しいひろがりのなか
私ひとりが鮮やかにめざめる
いまこうしてここにいる
そのことだけはとてもたしかだ
すべてはたぶん私のために
投げだされている問いかもしれない
それならばひとつひとつはじめから
名づけていってみようかしら
だれかのぬくもりを感じていたいように
すべてのものを抱きしめるために
詩集『リエゾン LIAISON』より No.05 「恋の終わり」
恋の終わり
こんなにかたく結びあっているのに
あなたと私とのあいだには
つづいているみちのりがあって
だから時間がいつも
空気になってゆらいでいる
まぶしい陽をみつめていると
不意にあなたに会いたくなって
それなのに誰だったのか思いだせない
あなたの名前も面差しも
こんなに鮮やかに浮かべられるのに
忘れることが罪ならば
覚えていることはとても恥ずかしい
私の瞳にはひろがる海があって
染まるまで泳ぎたい
いつだったかそういったあなただったが
いまではただ小石になって
そのときの声だけがうずくまる
けれどもすでに疾風が去って
海にはもう誰もいない
散ってゆく光が美しくて
空にむかってあなたの声をほうると
思いがけず大きくしぶく音がして
あなたの海で眠りつづけた私に気づく
詩集『リエゾン LIAISON』より No.04 「留守番電話」
留守番電話
ひとは沈黙がおそろしいので
おしゃべりをやめることができない
ひとは無がおそろしいので
遍在したいと願うのだ
無を語るには沈黙しかないのに
電話にさえ私はいないと云う声がいる
私はいないというそのことを
あたかも在るというかのように
在ることはつねにかなしみである
在ることについては語らねばならない
それがたとえばこんなふうに
とるにたらない詩であるとしても
言葉はいつもうごきだす
沈黙へそれとも沈黙から
受話器を置くと光がまぶしくて
私は青空について語りはじめる
詩集『リエゾン LIAISON』より No.03 「不在証明」
不在証明
そこにいる
ただそれだけの理由であなたを愛せる
これは不遜な考えだろうか
たとえば〈たとえば〉という言葉ひとつで
あなたについて語ろうとするのは
名づけることで
それは私のなかで息衝きはじめる
不在証明とは
だから名前を消し去ることだ
名づけられないものたちは
ついに私のなかに住むことはできない
瞳 唇 肩 腕 胸
あなたのすべてについて
いったいどうして名づけることができよう
こんなにもあなたはしなやかで
こんなにもあなたはまぶしいというのに
私のなかにあなたはいない
まだ名づけられない
あなたの破片がころがるばかりだ
だから〈だから〉という言葉ひとつで
あなたについて語れないだろうか
いま
私の腕のなかで
あなたのからだが叫びをあげる
おお とも うう とも
それは私に名づけられない言葉で
詩集『リエゾン LIAISON』より No.02 「いざない」
いざない
あした
真夜中の海にこないか
果てしない波のくりかえしのなかで
いつまでも眠る真珠になろう
それは美しい歌でもなく
それは誓いの言葉でもなく
ただうずくまるだけの真珠
その透きとおる肌のおもてに
あらゆるものを映して
どんないろやかたちやにおいも
ひかる真珠の沈黙のために
用意された答えに過ぎない
それならばうずくまることで新しく
すべてのものに答えてゆこう
あした
真夜中の海にこないか
波の音を聞きながら
きみが本当に眠ってしまうまえに
詩集『リエゾン LIAISON』より No.01 「視線」
視線
ふたりでいるときよりも
ひとりでいるときのほうがずっと
あなたのことを感じていられる
恋のはじまりとは嫉妬でしかない
そんな感情をもてあましながら
まぶしさについて考えている
光はどこかに闇があるので
あんなにかがやいていられるのかしら
たとえどんなにあなたが愛されようと
あなたについて考えることだけは
つねに私に許されていてほしい
窓辺に置かれたグレープフルーツが
私のまなざしに耐えきれず
ちょうどいま転げ落ちたところ